大名邸

現地編集者の上原和夫氏による

写真提供久保田真一

江戸時代に入ると、ほとんどの戦争が終結する。1639年、李山城の大名、松平遠江守直親がこの地の支配者に就任した。1645年、松平家の使用人・小栗吉次が野沢にやってきて、大湯の前の家に住み始めた。彼は、この家で薬師如来が大切に扱われていることにひそかに気づき、温泉客にも薬師如来を敬ってもらおうと提案した。そして、大湯の近くに祠(ほこら)を建てたのである。1674年、直親はその家から阿瀬上五左衛門に薬師堂を後世に残すよう命じた。

1691年、大湯付近で大名の別荘建設が始まったため、薬師堂は建命寺の隣の領地に移され、今に至っている。

1706年、松平は静岡県掛川市に移り住んだため、旧居の土地は村に返還された。

薬師堂と大名別荘を建設したことで、野沢温泉は「大名が利用すれば素晴らしい温泉に違いない」「病気や傷を癒す力を持つ薬師の恵みの湯がある」と評判になった。

峠を越えて癒しの温泉へ

この頃、野沢温泉には近隣の村から人が来るようになった。新潟県上越市から関田峠を越えて飯山方面へ、塩や米などの物資を携えてやってきたのである。この道筋には番所があり、女性や荷物の通行を見張っていた。この番所には、越後の女性たちが野沢温泉に入浴するために訪れたことが記録されている。

十日町や中越からも、志久見から虎渓峠を越えて千曲川沿いの道を通って、温泉客が訪れていた。

バスパートナーが運営する温泉

この間、温泉の近くに住む村人たちは、露天風呂のための匂い小屋を作り、掃除や照明など、風呂を快適にするための工夫を凝らし、温泉を管理していた。

江戸時代、村人は親族と一緒に暮らし、農作業や家族の儀式など、日常的なことを助け合いながら生活していた。野沢の村人たちは、それらに加えて、最寄りの温泉の近隣住民と「湯仲間」と呼ばれるグループを形成していた。「湯仲間は、温泉を共同で管理することで強い絆で結ばれていた。この「湯仲間」の風習は今も続いている。

温泉客の増加

江戸時代後期には、寺院への参詣や温泉療養のために旅する人が増えた。1771年、中野奉行所は温泉の利益に対して営業税を納めるよう命じた。温泉が村に利益をもたらさないこと、他の温泉が税を納めていないこと、これまでそのような命令がなかったことから、人々はこれに反対した。しかし、税金を払うか、温泉を閉鎖するかという選択を迫られたとき、村は税金を払うことにした。

1776年の増税反対の陳情書によると、米や味噌を持参して宿泊する来訪者の料金は16門であった。平均すると、3、4月は130人程度、6、7月は240人程度、8、9月は200人程度の来客があった。5月と10月は農繁期、11月から2月は大雪のため、宿泊客はゼロであった。1年間で570人のお客さんが来てくれて、それなりの収入にはなったが、食器やリネン、温泉の灯油代などを差し引くと、利益は微々たるものであった。また、屋根やロープ、木材のメンテナンス、温泉の湯気による床の張り替え、浴槽や板の交換、建物自体の建て替えなどにも費用がかかった。村人たちは、これらの費用はすべて山仕事などの自分たちの収入でまかなわれており、温泉は利益を生まないという主張をしていた。

それでも、訪れる人は増え続け、1838年に大湯は改修された。

風呂仲間で話し合い、温泉の源泉を整備し、小屋や浴槽を新しくした。大湯はその後、1888年、1947年、1998年と大規模な改修が行われ、野沢の中心地、シンボルとして大切に扱われてきた。

外湯の数も増やされた。古くからあった大湯、川原湯、熊野手洗湯に加え、1786年の新湯、1839年の十王堂の湯、滝の湯がそれぞれの地域の風呂仲間によって新たに開湯された。

温泉郷の開発

江戸時代末期、野沢村の人口は約1,100人。観光客は人口の3倍以上に増えたため、温泉街として警備や宿泊などさまざまな取り決めやルールが設けられた。

年々、湯治客が増える中、1854年、村は温泉に関する規則を定め、旅館や共同浴場の経営者だけでなく、村民全員が温泉税を納めるようになった。その理由は、宿泊施設を提供したり、商売をしたりすることで、来客から利益を得ようと思えば、誰でも利益を得ることができるからである。また、野沢温泉のルールでは、旅館は商品を売ってはいけないことになっている。そこで、村や旅館が持っている店を村人に貸し出し、村人全員が店や路上、旅館内で食料品や日用品、土産物を販売することを認めるという取り決めがあった。また、村人たちは、トラブルを防ぐために法を犯す者を見張り、訪れる人には礼儀正しく、笑顔で接することを約束した。

そこで幕末には、温泉は村人全員のものであり、温泉の繁栄が村の繁栄につながることが明らかになったのです。

野沢温泉が守る温泉

1868年に明治時代に入るとすぐに、1870年から1872年にかけて年間7,000〜8,000人に増え、1877年には10,000人を超えた。新しい露天風呂もオープンした。1869年に「浅間温泉」、1871年に「横地の湯」がオープンした。

しかし、新たな国家的スキームの展開に伴い、江戸時代から村が守ってきた温泉を、新たな村の規模や現代の法律に適合させるための取り決めが必要になったのである。

野沢村の「温泉は村民のもの」という古い慣習を守るため、村は「野沢組」という自治組織を作りました。これ以降、村は行政組織となり、自治組織「野沢組」は村の山、水、温泉を中心とした地域を守るために存在するようになった。

大湯の復興から

明治維新の激変の波が落ち着き始めた1888年、大湯は新しい時代にふさわしい大規模な改築が行われ、11月に長野県知事木梨清一郎を招いて盛大な開館式が行われた。入り口付近には、木梨知事の「凌雲会之宮」と書かれた大きな板が置かれた。同時に、湯釜の周囲を要塞化し、安全を確保した。

変わりゆく温泉の風景

馬車や人力車が通れるように道路が整備された。

1901年頃、多くの部屋や旅館も改修された。野沢温泉を紹介する冊子が発行され、美しい景色と英文が掲載された。

自動車と鉄道の時代

大正時代には自動車や鉄道の時代が到来し、野沢温泉へのアクセスは格段に良くなった。

1920年、野沢に初めて自動車がやってきた。子供たちが夢中になって追いかけた。

1923年(大正12年)には、桑名川まで延伸され、上境駅から千曲川を越えて野沢温泉まで直行する道路が開通した。

1924年、屋代と木島を結ぶ長野電鉄の加藤線が開通した。

野沢温泉を紹介する鉄道路線案内図やパンフレット、絵葉書が数多く出版されるようになった。

温泉と薬師堂

薬師如来は、人々を苦しみから解放する仏といわれ、日光菩薩、月光菩薩とともに三尊仏の一つで「癒し仏」とも呼ばれています。薬師如来は十二天将に守られていると言われている。

野沢の温泉は、病気を治す、心身を癒すといった意味合いが深く、古くから信仰を集めていた。

温泉薬師堂

温泉薬師堂は、約350年前に大名・松平遠江守の寄進により建てられたと伝えられています。1932年の火災で全焼したが、1953年に復元され、現在は野沢組の手で守られている。

本尊、脇侍、十二神将は近代仏像彫刻家・大内盛芳の作で、温泉と村の守り神として村民の信仰を集めている。

薬師堂 - 熊の薬師さま

熊が傷を癒したという寺湯の源泉を持つ土地に、1899年に建てられた薬師堂。野沢温泉の外湯の中では、大湯、川原湯とともに最も古い温泉である。御殿や厨子の整備は、仏師・清水一助(liyama city)に任せたという記録が残っています。

浅間薬師堂(薬師源右衛門)

江戸時代、寺湯と新湯に住んでいた庄屋は源右衛門という名前だった。源右衛門は、この薬師堂に屋敷神(やしきいがみ)を祀っていた。

上寺湯の開湯、金毘羅宮や道祖神の石碑の建立、百番観音や薬師堂の建立など、強い信仰を持つ家であった。