外湯と十二天将

現地編集者の上原和夫氏による

写真提供久保田真一

スキーの話

日本でスキーが始まったのは、1911年、オーストリア出身のテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少将が新潟県高田市でワンポールスキーを教えたのがきっかけだった。この講習を受けたliyama中学校の教師、市川達丞は、その知識を生徒たちに伝えた。1912年3月、寮から帰ってきた立山中学校の生徒たちが、向林に最初のスキーコースを残し、野沢温泉の生徒も含めて、若い世代にスキーが広まった。

スキークラブとスキー場の設立

1923年12月、「野沢温泉スキークラブ」が設立された。主な活動は、スキー場の造成、スポーツマンやトレーナーの教育、スキー大会の開催などであった。1924年、日影スキー場が誕生した。

スキーのない雪国」というキャッチフレーズのもと、雪国の新しいライフスタイルを創造した。野沢温泉は夏のリゾート地であるが、冬はスキーで訪れる人が期待されていた。

それ以来、地元の人たちが協力してスキー大会を作り、有名なスキーヤーを招いて講習会を開いてきた。

シュナイダーの登場

1930年、野沢温泉スキー場でハネス・シュナイダーによるスキー講習が行われた。日本では映画 "白い恍惚" で有名である。また、アールベルクの高速滑走技術を開発し、巧みなポール操作と安定した技術、ダイナミックな滑りとジャンプで、周囲から「スキーの神様」と讃えられた。このような影響力のあるスキーヤーによるトレーニングは、スキー場の発展にも大きな影響を与えた。

右の写真でメガホンを持っているのが坂部五郎さん。父親は、レルヒ少将の薫陶を受けた高田教習所の所長であった。レルヒは坂部も育てていた。その後、ドイツに留学し、オーストリアで総領事として働いた。また、シュナイダーの通訳としても同行した。スキーに関する「坂部コレクション」は、その後、野沢温泉村に寄贈され、日本スキー博物館設立のきっかけとなった。

シュナイダーが野沢温泉で滑ったことは、その後、村にさまざまな影響を与えた。彼が滑ったゲレンデは彼の名前にちなんで名づけられた。1932年から毎年開催された「シュナイダー杯争奪戦」では、地元のスキーヤーが新記録の樹立や技術の向上に励んだ。

シュナイダーはオーストリアのサンアントン村で生まれ、この村は野沢温泉にとって現在でも良好な関係を保っている姉妹村となった。そのサンアントン村から、親善の証としてシュナイダーの胸像が贈られた。岡本太郎は、そのスキー場への設置デザインを依頼された。岡本太郎の作品は、野沢温泉村では「風呂」の表意文字や「乙女の像」などで知られている。

子供向けスキー

スキー部長の富井栄次は、子どもたちにスキーをきちんと教えたいと考え、スキー部の富井健次という指導者を学校に派遣した。

冬場の仕事は、朝は用具の点検・修理から始まり、昼前には低学年、午後には高学年の生徒を対象に、先生と一緒に日影スキー場でスキー体操や回転技法の指導を行った。放課後は、特設のロングスキーコースでスキー選手のトレーニングを行った。村はスキー板とストック50本を購入し、学校に提供した。こうした取り組みは、日本では非常に先進的なことだった。

戦後の新たなスタート

1945年8月15日、太平洋戦争が終結し、スキーの新時代が始まりました。高松宮宣仁親王は、待ちに待った平和な時代とスキー大会の復活を記念して、1948年の第3回国民体育大会と野沢温泉で開催された第26回全国スキー大会をご訪問された。

1950年、野沢温泉スキークラブは、野沢温泉スキー場にスキーリフトを設置する運動を正式に開始した。日本で最初にリフトが設置されたスキー場は、志賀高原丸池スキー場と札幌藻岩山スキー場であった。しかし、これらはアメリカ占領軍によって建設されたもので、日本人は

を許さない。翌年、草津温泉のスキー場に初めて民間スキーリフトが導入された。スキー研修で草津を訪れた片桐正は、効率よくスキーヤーを運ぶリフトに感嘆し、野沢にもリフトを建設しようと本格的に考え始めた。

日影スキー場のジャンプ台にリフトを併設することは決まったが、工事を誰に任せるかが問題であった。誰かが、「鉱山会社の資材運搬用のロープウェイと原理は同じ。そこで、片桐はいり、山崎英治は群馬県の大串鉱山に向かった。鉱山で話を聞いた人たちは、2人の情熱に感動し、日曜日だけ、索道部長の佐々木が連れてきてくれた。

野沢温泉を訪れたのは、経験豊富な大工さん数人。モーターを入れる小屋も、骨組みも、大道具も、すべて木でできている。地元の材料がいいということで、日影の山からカラマツやスギの木が運ばれてきた。

戦後の新たなスタートに向けて Cont.

いよいよ大道具の製作に取り掛かるが、肝心のワイヤーケーブルがない。草津温泉の硫黄鉱山に古いケーブルがあることを知った片桐正は、トラックで乗り付けた。雪が降る中、片桐は無事に野沢にケーブルを持ち帰ることができた。

子供たちも含め、村人たちが力を合わせて、手作業でケーブルを日影スキー場まで運びました。ロープでしっかり掴み、束ねたケーブルを大湯の坂道まで運びました。

1950年12月12日、大雪の日にスキー部員全員が出席して、モーター室とリフト乗り場の骨組みの起工式が行われた。翌日からケーブルの敷設が始まった。機械がないため、すべて手作業である。関係者の不眠不休の努力により、12月24日にケーブル敷設は完了した。佐々木さんが始動スイッチを押し、リフトの運行が始まった。モーター音が鳴り響き、ベルトが動き出すと、全員が歓声を上げ、手を叩いて喜んだ。25日の夜、真っ暗闇と荒天の中、搬入と取り付けが行われた。合計9台の輸送機を装着することができた。

12月26日、野沢温泉日影スキーリフトの竣工式と試乗会が行われました。吹雪の中、子供も大人もリフトの試乗に大興奮。翌日から28日までは、リフトを無料で開放。翌29日からは1回10円である。この歴史的な木製第1リフトは4年後、支柱を鉄製に交換した。