村人全員で支えるスキー場

現地編集者の上原和夫氏による

写真提供久保田真一

1960年代、<span>高度経済成長の波に乗って</span>、<span>スキーをレジャーとして楽しむ人が増え行きました</span>。<span>様々な場所で新しいスキー場が続々オープンし</span>、<span>そのなかで野沢温泉も人気を集め始めた</span>。<br>

野沢温泉のスキー場は、スキークラブが運営し、リフトやゲレンデの開発・整備を行っていました。村民の協力のもとでスキー場の管理・開発を続けていくために、1963年にスキー場開発の際には、<span>村に経営権が移されました</span>。そして、<span>村とスキークラブが</span>"二人三脚 "で<span>役割分担する事となったのです</span>。村はスキー場の運営を管理し、スキークラブは選手の育成や大会の開催<span>に力をいれました</span>。<br>

村営になってからリフトが大幅に増え、ゲレンデも新設され村営スキー場は繁栄を極めました

ゲストハウスの増加

1950年代以降、<span>正月休みになると全国から多くの人が訪れるようになり</span>、大きな旅館が、<span>旅館に泊まれないお客を農家に頼んで宿泊させたのが</span>、<span>ゲストハウスの始まりだと言われています</span>。<br>

ゲストハウスは旅館より安く、家庭的な雰囲気ですそれを好む客層が増加しました。

しかし、営業するには保健所の許可が必要で古い建物では客足が制限されるため客足が増えると自宅の改築や建て替えをする人が続出したのです

1961年ゲストハウス協会が設立

1970<span>年代以降にゲストハウスの数が急増し</span>、<span>村のほぼ半数の世帯がゲストハウスを経営していることがわかります</span>。そのうち4分の3が定員40<span>人までの中小規模の民宿でした</span>。<span>野沢温泉村の民宿の特徴は</span>、<span>村民が副収入源として、</span><span>冬期のみ民宿を経営しることがわかります</span>。<br>

快適な村

スキー場の成功の為にはスキー客、温泉客、そしてもちろん村人たちにとっても、より快適で便利な場所となるだけではなく、村をより快適で便利な場所にすることが必要でした。

まず、雪が降る冬でも使いやすい道路であることが条件があげられました。1954年、ブルドーザーによる道路の除雪が成功し冬でも木島~野沢温泉間の定期バスの運行が可能になりました

村で毎日使う幹線道路にはパイプの上に道路を敷きボイラーで温めた水や温泉の排水を循環させて道路の温度を上げ雪を溶かす融雪システムが取り入れられました

年々、観光客が増え、汚水の量も増えていき、村の道路には雪が積もり、人力では十分な処理ができない状態でありましが、最初の下水処理施設の建設は1962年と比較的早く日本初の村営下水道となりました

しかし、生ゴミなどは川に流されており川の汚染は依然として問題になっていました最初の汚水処理施設は性能の効果が低かったため、1979年に新しい施設を設計・建設がされました。その後、汚水の拡散率は100%近くまで上昇しました。また、この下水処理施設では水を農地に再利用し堆肥を肥料にして自然の水循環を完成させ資源の有効活用に貢献しました

1990年代には、ルンタースキー競技の人気上昇や長野オリンピックのバイアスロン競技開催を契機に旅館のトイレやお風呂が和式から洋式になるなど公共施設の整備が進みました。また、花を植えたり、ゴミを撤去したりして、より清潔で魅力的な環境を作ろうという動きもはじまりました